2016年10月29日土曜日

彷徨える河

コロンビアのシーロ・ゲーラ監督が描く、アマゾンを舞台にした失われゆくものの物語


El abrazo de la serpiente

2015年/コロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン

監督:シーロ・ゲーラ
脚本:シーロ・ゲーラ、ジャック・トゥールモンド
出演:ヤン・ベイヴート、ブリオン・デイビス、アントニオ・ボリバル・サルバドール
配給:トレノバ、ディレクターズ・ユニブ
上映時間:124分
公開:2016年10月29日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

●ストーリー

 アマゾン流域の奥深いジャングル。侵略者によって滅ぼされた先住民族唯一の生き残りとして、他者と交わることなく孤独に生きているシャーマンのカラマカテ。ある日、彼を頼って、重篤な病に侵されたドイツ人民族誌学者がやってくる。白人を忌み嫌うカラマカテ は一度は治療を拒否するが、病を治す唯一の手段となる幻の聖なる植物ヤクルナを求めて、カヌーを漕ぎ出す。数十年後、孤独によって記憶や感情を失ったカラマカテは、ヤクルナを求めるアメリカ人植物学者との出会いによって再び旅に出る。過去と現在、二つの時が交錯する中で、カラマカテたちは、狂気、幻影、混沌が蔓延するアマゾンの 深部を遡上する。闇の奥にあるものとは...

●レビュー

 アマゾン流域の広がる奥深いジャングルは、他の世界と隔絶して暮らす先住民もいて「未開の地」と言われている場所。その過去に何があったのか私はほとんど何も知らなかったと思う。『彷徨える河』という物語は、アマゾンの姿をスピリチュアルな世界観で捉え、その地に根付く精神世界を見せながら、闇に紛れてきたその歴史の一端を明らかにしてくれる。

 物語には、時代も国籍も異なるふたりの白人探検家とアマゾンで生き残った先住民族の男が登場する。ヤクルナと言う幻の植物を求めてアマゾンに分け入ったふたりの白人の探検家が、若き日の先住民でシャーマンのカラマカテと年老いたカラマカテ訪ねるという、二つの時間軸によって物語は紡がれる。カラマカテがそれぞれの男と一緒にカヌーを漕ぎ、アマゾン深部へ遡上するのだが、二つの時間と記憶の交錯によって、観客はアマゾンの深遠な世界に引きずり込まれていく。モノクロームの美しい映像がその様相により一層の深みを増している。

  20世紀の最初にアマゾンに足を踏み入れた実在のドイツ人の民俗学者とその30年後にアマゾンを探検したアメリカ人植物学者の手記に触発されて書かれたこのストーリーは、フィクションではあるが事実を織り交ぜていてとても興味深い手法になっている。さらに、時代の違う二人の探検家の目線に加え、クルーを率いてアマゾンに入った監督自身の視線が三つ目の視線になっていると気づく。二人の探検家とともに、カラマテカがアマゾンの奥地へ分け入ることで、失っていた自身の記憶を取り戻していくのだが、それはすなわち、私たちがアマゾンの闇の記憶を掘り起こすことになる。監督自身が語っているように、先住民の目線で語ることが最も重要なことだ。アマゾンの歴史とその記憶を通じて、私たちの世界観とは異なる習慣や掟で成り立ってきたアマゾンというの存在をこの作品は再認識させてくれる。そして、私たちが失ってしまったものが何かを示唆してくれている。

 監督は、近年世界的な注目を受けているコロンビアのシーロ・ゲーラ。本作は2015年にカンヌ国際映画祭で監督週間芸術映画賞を受賞。2016年ののアカデミー賞外国語映画賞でもコロンビア史上初めてノミネートされ、高い評価を受けている。老いたカラマテカを演じたアントニオ・ボリバル・サルバドールもオカイナ族最後の一人で、彼の出演が本作品により一層のリアリティーをもたらしている。★★★☆)加賀美まき

2016年10月19日水曜日

奇蹟がくれた数式


The Man Who Knew Infinity

 20世紀初頭、若きインドの天才数学者が海を渡り、英国の教授と数式の謎に挑む

 

2016年/イギリス
監督:マシュー・ブラウン
出演:デヴ・パテル(『スラムドッグ$ミリオネア』『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』)、ジェレミー・アイアンズ(『運命の逆転』『ミッション』)、トビー・ジョーンズ (『裏切りのサーカス』)
配給:KADOKAWA
公開:1022日より角川シネマ有楽町ほか

 ●ストーリー 

1914年、インドのマドラスで働く青年ラマヌジャンが出した手紙が、イギリスのケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで教授を務めるハーディの元に届いた。その手紙に書かれていた大きな数学的発見を目にしたハーディは、ラマヌジャンの才能を見抜き、彼をケンブリッジへと呼び寄せる。ほぼ独学で数学を学んだラマヌジャンだが、ハーディは大きな才能を秘めているのを見抜いたのだ。妻と母をインドに残し、単身ケンブリッジに向かったラマヌジャンだが、“直感”に基づく彼の数式は、論理的な証明をすることができなかった。ハーディはラマヌジャンに数式の証明を促すが、なかなかそれを説明することはできない。ラマヌジャンは、次第に孤独に追い詰められていく。

●レヴュー 

「数学者」というと最も映画になりにくい題材のように思えるが、数学者ジョン・ナッシュを描いた『ピューティフル・マインド』(アカデミー作品賞)や、数学の才能を持った青年を描いた『グッド・ウィル・ハンティング』などもあるし、数学ではないがホーキング博士を描いた『博士と彼女のセオリー』などもあった。また、悲劇の数学者チューリングを描いた『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』も面白かった。

本作はそうした流れを受けつつ、インド以外では知られていない、夭折の数学者ラマヌジャンを取り上げたところが面白い。僕も10年前に、担当していた某ガイドブックのコラムで取り上げるまでは彼の存在を知らなかった。南インドのクンバーコナムという町についての原稿を書いていた時に、ラマヌジャンの名が出てきたのだ。

彼の生い立ちや業績は、各自ググっていただくとして、映画の多くを占めるのは彼のイギリスでの留学時代で、彼と指導者であるハーディ教授との師弟関係を中心に語られる。ラマヌジャンはインドの敬虔なバラモンの家庭に生まれた。しかし母親と結婚したばかりの妻を養うため、研究に勤しむ事もままならずに、日々働くしかなかった。彼を研究に駆り立てたのは何だったのか。

私は数学にはとんと疎く、数式を見てもさっぱりわからないが、数学をしている人に聞くと感性は大事だという。映画では彼の数学的発見の理由を“直感”ともしているが、ラマヌジャンはそれを“女神の導き”とも表現していた。つまり自分の直感は、神が与えてくれたという事だ。私たちも日々暮らしていて、理由なしに直感で感じてしまう事がままある。もちろん、数学は印象ではないが、数字に驚くほど精通していた彼にとって、すべての数字には意味があって存在しているものなのだ。意味のないものはない。

しかし彼の指導者であり、もう一人の主人公であるハーディには、それが理解できない。ハーディは無神論者であるだけでなく、人の悩みや様子に気づかない、“ニブい”男なのだ。しかし彼も学者で、真理を知りたい気持ちはラヌマジャンとなんら変わる事がない。そんなある意味イギリス的な、世渡り下手な初老の教授を演じているのは『ミッション』などの名優ジェレミー・アイアンズ。最近、力が抜けてきて、いい感じになってきているが、ここでもそんな役をうまく演じている。

映画は、そんな年齢も国籍も考え方も違う2人が、人間として向き合える関係を築くまでの物語。なので、スリリングな展開やミステリー風味はない。20世紀初頭のケンブリッジ大学の雰囲気も興味深い。誠実な造りだが、無難な展開や着地点なので、あまり印象に残らない出来になってしまったのも確か。悪くはないが上品にまとめすぎたかな。
★★★前原利行

2016年10月11日火曜日

とうもろこしの島


人里離れた山間の川の中州に、とうもろこしを植えて収穫を待つ老人とその孫娘。しかしそこにも戦争の影が迫っていた




 Simindis Kundzli
2014

監督:ギオルギ・オヴァシュヴィリ
出演:イリアス・サルマン、マリアム・ブトゥリシュヴィリ
配給:ハーク
公開:917日より1111日まで岩波ホールにて公開中

●ストーリー

ジョージア(グルジア)西部のアブハジアで、独立を目指すアブハズ人と、それを阻止するジョージア人との間で紛争が起きていた。一方、戦争から遠く離れた山間の川では、毎年春先になると雪解け水によって川の中洲に島が生まれていた。今年もどこからかアブハズ人の老人が新しくできた島にやってきた。この土地では、そんな肥沃な土地でとうもろこしを作流のが習慣だからだ。老人は小屋を作り、土を耕して種をまく。戦争で両親を失った孫娘も一緒だ。ときおり、両軍の兵士たちが川をボートで行き来し、両岸でにらみ合うこともあるが、老人たちには関心を示さない。とうもろこしは成長していくが、老人たちはその畑の中で傷を負ったジョージア兵を発見する。


●レヴュー

1992年にジョージア(グルジア)で起きたアブハジア紛争を描く映画の連続上映の1本。もう1本は『みかんの丘』で、これも同時公開中だ。そちらでも解説したが、アブハジア紛争はソ連邦が解体してジョージアがソ連から離れていくと、ジョージア内の自治共和国がさらに分離していくという、独立の入れ子構造のような戦争だった。『みかんの丘』でも触れたが、この戦争は元は同じ国民が殺し合う救われない戦いだった。

しかしこの映画はそうした戦争の背景の説明を一切排し、登場人物にも主張をさせない。中洲にできた島にまず老人がやってきて黙々と小屋を建て始め、そこに孫娘が加わる。二人とも寡黙で、特に前半は会話もほとんどない(少女は話せないのかと思ってしまったほどだ)。そのため、この映画は時代背景もわからない、どこか現実離れした寓話の趣さえ見せるが、ときおり通り過ぎる兵士たちが外の世界と戦争の影を落としていく。

季節は進み、とうもろこしは成長して収穫の時期を待つ。その生命の力強さと対照的に、常に“死”の影を背負う兵士たち。しかし傷ついた兵士を目の前にすれば、老人はただ命を助けるだけだ。戦争は老人と子供しかいない世界を生む。孫娘が心動かされる相手は、もはや世界には傷ついた兵士しか残っていない。

両岸で睨みあう兵士たちがいる。とすればこの川の中州の島は、どちらにも属さない平和な世界だが、そこには老人と子供しかいない。そしてその存在すら許されないかのように、そんな平和さえも川の濁流が奪っていく。この世界に、もはや平和な場所は残っていないのか。しかし、翌年になればまた、新たな島が生まれ、そこにとうもろこしを植える男がやってくる。世界はまた同じことを繰り返していくのだろうか。

美しい自然の中で、生命を育むことと奪うことを描くこの寓話は、きっと多くのことを考えさせてくれるはずだ。(★★★☆前原利行

 

■関連情報


2015年ゴールデングローブ賞外国語映画賞ノミネート