2016年8月26日金曜日

みかんの丘


アブハジア紛争の中、辺境の村に残った老いたエストニア人。傷ついた敵同士がその家で暮らすうち、心を通わすようになるが…


Mandarinebi
2013年/エストニア、ジョージア

監督:ザザ・ウルシャゼ
出演:レムビット・ウルフサク、ギオルギ・ナカシゼ
配給:ハーク
公開:917日より岩波ホールにて(同時公開『とうもろこしの島』)


 ●ストーリー

ジョージア(グルジア)西部にあるアブハジアで、独立を目指すアブハズ人と、それを阻止するジョージア人との間で紛争が起きていた。そして戦場から遠く離れた山地の小さな集落にも、戦火が迫りつつあった。移住したエストニア人たちが暮らしていたこのみかん農園が広がる集落だが、紛争のため住民の多くは帰国し、残ったのは二人の老人、イヴォとマルガスだけだった。マルガスは実ったみかんの収穫が気になるが、イヴォはどこか上の空だ。ある日、彼らの家の前で戦闘が起き、イヴォは生き残った2人の兵士を自宅で介抱する。ひとりはアブハジアを支援するためにやってきたチェチェン人の傭兵アハメド、もうひとりはジョージアの若い兵士ニカだ。二人は快方に向かい、互いに相手への憎しみを抱きつつも、恩人のイヴォの家では決して殺し合わないことを約束した。しかし数日後、そこにアブハジアを支援するロシアの小隊がやってきた。

●レヴュー

仕事柄、ジョージアやアブハジアについては、知っている方かもしれないが、映画を見て原稿を書こうと調べ出すと、知らなかったことばかりだった。まず、本作の主人公とも言えるイヴォはエストニア人だ。バルト三国の一つとして知られるエストニアの人間がなぜアブハジアに?というところから始まるが、19世紀末から20世紀初頭に、エストニア人がバルト海沿岸から移住してきたという歴史があることに驚いた。それもロシアがアブハジアを征服した際、イスラム教徒のアブハズ人たちの半数近くがオスマン朝に移住を余儀なくされ、その結果、ロシア帝国内の様々な民族が移り住むことになったという。アブハズ人はジョージアの中では少数民族だが、その中にさらに少数民族が住んでいたのだ。

また、なぜチェチェン人のアハメドが義勇軍としてアブハジア側で戦っているかというと、アブハズ人はもともと北カフカス系の民族で、イスラム教徒が多かった(のちにキリスト教徒に転向したものもいたが)。ということで、イスラム教徒が多数であるチェチェン人が義勇軍としてくるのだが、映画を見ると、実際にはロシアとの戦いで実戦を積んだ傭兵としてのスカウトされたようだ。

少数民族の中の少数民族であるアフハジアのエストニア人からすれば、今回の紛争に対しては冷ややかな目で見るしかなかったのかもしれない。それに幾多の政変や戦争を見てきた老人にとってそれは一時的なものだが、大地の実りは毎年やってくるものなのだ。そして戦争は、いつでも若者が死ぬことで続けられる。老人からすれば子供か孫のような兵士たちが、家の前で撃ち合い、死んでいく。勝ち負けなどなんの意味もない。将来があったはずの人間が無駄に死んでいくだけだ

怪我の治療を受けるうち、最初は横暴な振る舞いをしていたチェチェン人のアハメドだが、自分を助けてくれた老人シヴォに恩義を感じ、故郷にいる家族を養うために傭兵になっていることを告げる。一方、ジョージア人の若者ニカは、劇団で役者を目指していたが、志願してここにやってきたことを告げる。戦争が終わったら、また舞台に立ちたいという。
最初は共に憎しみを感じ、老人イヴォのために嫌々協力していた二人だが、イヴォの家で過ごすうち、お互いがそれぞれ家族もいる血の通った人間であることに気づいていく。

この町からも戦場からも離れた人がいない集落というのが、戦争という生々しい現実の中にありながら、次第に話が寓話的色彩を帯びていくのだが、僕はそこに小学生の頃に読んだ手塚治虫の反戦短編マンガや、小川未明の童話「野ばら」を思い出した。国境に配置された老人と若者の兵士の話を覚えているだろうか。
映画は最後に大きな転換点を迎える。「野ばら」と違って、戦争はこの地にもやってきたのだ。
それもあっという間に。
映画が終わった時、生き残ったものも、死んだものも、いっとき幸せでいられた瞬間があったことを思い出す。
大義だろう、自己防衛だろう、自由だろう、いろいろあるだろうが、
死んでいく人たちにも、それぞれの家族があり、人生がある、私たちと同じ人間であることを忘れてはいけない。
これは世界の「辺境」での物語だが、それは世界のどこにでも起きる(起きた)話なのだ。
★★★☆前原利行

■関連情報 

2013年ワルシャワ国際映画祭最優秀監督賞、観客賞
2015年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート