2015年7月24日金曜日

フリーダ・カーロの遺品  ー 石内都、織るように

死後50年を経て姿を現したフリーダ・カーロの遺品。
写真が石内都のまなざしが、彼女の姿を写し出す


2015年/日本
監督・撮影:小谷忠典
出演:石内都
配給:ノンデライコ
上映時間:89分
公開:8月8日(土)、 シアター・イメージフォーラムほかほか全国順次公開
HPhttp;//legacy-frida.info

   ストーリー
 メキシコの首都・メキシコシティにあるフリーダ・カーロ博物館、通称『青い家』。ここはフリーダ・カーロの生家であり、夫で画家のディエゴ・リベラと生活を共にし、そして最期の時を迎えた場所でもある。2004年、死後50年を経て、バスルームに封印されていた数百点の遺品が遺言によって姿を現す。
 2012年、その遺品を撮影するプロジェクトが立ち上がり、世界的な写真家・石内都に撮影が依頼される。『青い家』を訪れた石内の前に並べられた遺品は、伝統衣装やアクセサリー、コルセットや医薬品等、膨大な数に及ぶ。一つ一つの遺品のディテールを見ながら、石内は等身大の、一人の女性としてのフリーダの姿を発見していく。
 撮影は佳境を迎え、石内はフリーダが愛した伝統的刺繍の研究家でありダンサーでもある女性の元を訪ねる・・・。

   レヴュー
 メキシコを代表する女性画家、フリーダ・カーロ(1907-1054)は、シュルレアリズムの作家として自国そして欧米でも高く評価されている。鮮やかな色彩を用い、強烈な印象で傷や痛みを自分自身のリアリティとして描いたフリーダの作品。それは、病気や事故による彼女の身体の不自由さやメキシコ近代化の荒波に翻弄された自己表現でもあるのだが、情熱的な愛を貫き、一人の女性として力強く生きた様においても世界中から共感を呼んでいる。映画好きならば、サルマ・ハエック主演の『フリーダ』(ジュリー・テイモア監督/2002年)の鮮烈な印象を覚えているだろう。
 50年の封印が解かれ、フリーダの遺品がメキシコの眩しい陽の下に姿を表す。そこにカメラを向けることになったのが写真家の石内都で、本作は彼女の3週間の撮影の様子を捉えたドキュメンタリーである。

 左右の足の長さ違いがわかる靴、彼女を支えたコルセット、薬瓶の数々、そして美しい伝統衣装のドレスやアクセサリー。それに初めて向き合った時の石内の引き締まった表情が印象的だ。フリーダは、波乱万丈な人生とその鮮烈は画風を強調されることが多いが、靴の高さの違い、ひとつひとつ丁寧に繕ったドレスや下着の修繕の跡、コルセットに自分で開けた穴など、遺品ひとつひとつに刻まれたディテールを見つめることで、フリーダの人間像が浮かび上がってくる。そして、シャッターを切る石内の心の変化を映像から感じることができる。

 石内が最も惹かれたのは、フリーダのアイデンティティを支えた伝統衣装。フリーダが愛した、オアハ州イスモ地方のテワナドレスは本当に素晴らしく、美しい刺繍の衣装は母から娘へと受け注がれている。その取材映像も必見。石内の制作過程を追いながら、メキシコに生きる女性たちの力強さ、伝統的な結びつき、そして生死感といったメキシコの風土もこの作品から感じることができるだろう。(★★★

2015年7月17日金曜日

わたしに会うまでの1600キロ


Wild

トレッキング未経験の女性が、1600キロのトレイルを3か月かけて歩いた。その道中に、去来する過去のできごと。人生をリスタートさせる決意の物語。






2014年/アメリカ

監督:ジャン=マルク・ヴァレ(『ダラス・バイヤーズ・クラブ』『ヴィクトリア女王 世紀の愛』)
脚本:ニック・ホーンビィ(『ハイ・フィデリティ』『アバウト・ア・ボーイ』の原作)
原作:シェリル・ストレイド
出演:リース・ウィザースプーン(『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』『キューティ・ブロンド』)、ローラ・ダーン(『ブルーベルベット』『ジュラシック・パーク』)
配給:20世紀フォックス
公開:828日よりTOHOシネマズシャンテほか

●ストーリー 

ようやく登りきった岩山の上で靴を片方落としてしまったシェリルは、もう片方まで投げ捨てる。ロサンゼルス北のモハーベ砂漠からワシントン州ポートランド近郊までの1000マイル(1600キロ)を歩く道、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)。今までこんな旅をしたことがないシェリルなので、最初から失敗の連続だった。出発地で買い込んだ新品の登山用具をバックパックに詰め込むと、重すぎて立てない。初日はたった10キロしか歩けなかった。そのうえ、携帯コンロの燃料をまちがえて買い、冷たい粥を毎日食べるハメに。歩きながらシェリルは回想する。子育てが一段落して、シェリルと一緒の学校に通い出した母ボビーのことを。あの頃は本当に楽しかった。
トレイルを歩き始めて8日目、空腹に堪え兼ねて、危険を感じながらもトラクターの男についていくと、男の妻が手料理を作ってもてなしてくれた。12日目、道の途中でベテランハイカーと出会い、その先にある宿泊所で、また落ち合うことを約束する。道中、シェリルは自分の度重なる浮気とドラッグ依存により、夫と離婚したこと、父親が定かではない妊娠をしたことを思い出す。そんな日々にふと目にしたのが、このトレイルのガイドブックだったのだ。


●レヴュー


『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でアカデミー賞を受賞したアメリカ人女優リース・ウィザースプーン。世間的には『キューティ・ブロンド』シリーズの能天気なコメディエンヌのイメージが強いが、僕のお気に入りの女優のひとり。最近は地味な作品が多くて話題になることが少なかったが、制作会社を立ち上げ、『ゴーン・ガール』などのプロデューサーをしていたらしい。もちろん本作でも製作を兼ね、この体当たりの演技で本年度のアカデミー主演女優賞にノミネート。ほぼ一人称で語られる本作なので、出ずっぱりだし、それまでのイメージとは異なる演技もしているなど、よほどこの作品に惚れ込んだに違いない。

原作はシェリル・ストレイドが実際にPCTを歩いた記録をまとめた自叙伝で、2012年に出版されてベストセラーになったという。歩いた時期は、劇中に「ジェリー・ガルシア死去」が出てくるので1995年のことだろう。ウィザースプーンは出版前に原作を読んで感動し、映画化権を獲得。脚本を『ハイ・フィデリティ』『アバウト・ア・ボーイ』の原作者として知られるニック・ホーンビィに依頼。ホーンビィは、なぜ彼女がトレイルに出たのかを最初に語らず、旅の途中でそれが徐々に回想シーンによって明かされていくというように、構成を映画用に変えた。これは効果的だったと思う。ひとりで自然の中を歩いて行くのは、小説だとモノローグが入るので有効だが、映像に延々とモノローグを付けるわけにもいかないし、ほとんどの時間が何も起こらないので、映像だけだと単調になってしまうからだ。そこで、アクセントを付けるため、ところどころに回想シーンを入れ、それも彼女が何者であるかを少しずつ明かしていけば、観客の興味が持続していくようにした。同時期に観た、やはり女性ひとり旅映画の『奇跡の2000マイル』では、その単調さをわざと取り込んでいたが。監督は『ダラス・バイヤーズ・クラブ』で、マシュー・マコノヒーにアカデミー主演男優賞をもたらしたジャン=マルク・ヴァレ。派手さはないが、演出力のある監督だ。

あまり山歩きやトレッキングはしないほうだが、海外旅行ではたまにすることがある。単調な風景の中の移動では、変化は頭の中でつけるしかない。歩きながら、ふだんは忘れていた過去の出来事や忘れてしまった人の顔が次から次へと立ち現れ、そして音楽のメロディーが一日中ループして離れない。数日間、あの曲が頭で何百回もリピートしているということはよくあるのだ。この映画の主人公シェリルの頭の中でリピートしている曲は、サイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んでいく』だ。シェリルの母がかつてよく口ずさんでいた歌。それが映画の中で何度も変奏を重ねて流れ、エンドクレジットで本物が流れるときは感動モノだ。

周囲に家もない山の中を歩くひとり旅。『奇跡の2000マイル』ではまだ牧歌的な70年代の雰囲気があったが、これは現代のアメリカ。女性のひとり旅には、自然以外の危険もつきまとう。最初のトラクターの運転手に「夫が先を歩いている」とウソをいい、途中で出会ったハンターにおびえる。そんな緊張から解き放たれるのが、山小屋での仲間たちとの語らいや、たまに町に出た時の息抜きだ。途中、シェリルが町で目にするニュースが「ジェリー・ガルシア死去」。日本だとわからない人も多いだろうが、アメリカではものすごい数のファンがいるバンド、グレイトフル・デッドのリーダーだ。この映画の一シーンからもとくに地元カリフォルニアでは、いまでも根強い人気があることがわかる。

旅はいつもあっけなく終わる。1週間の旅だって、1年の旅だって。映画やドラマと違って、フィナーレは華々しくなく、誰かが旗を持って出迎えてくれるわけではない。本作もそうした意味では、「ああ、ここが最終地点なのね」と地味だが、旅をしたことがある人は、旅はゴールが重要ではなく、その過程が重要であることはわかるだろう。何よりも、旅は自分をリセットできる場なのだ。シェリルも、今までの人生をここでリセットできたはずだから。
(★★★☆)

ラブ&マーシー 終わらないメロディ


Love & Mercy


 “天才”と呼ばれたザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィソルン。その苦悩の日々を2人の俳優が演じる。音楽ファンは必見!



2015年/アメリカ
 監督:ビル・ポーラッド(『それでも夜は開ける』)
出演:ジョン・キューザック(『ハイ・フィデリティ』)、ポール・ダノ(『ゼア・ウィルビー・ブラッド』)、エリザベス・バンクス(『シー・ビスケット』)、ポール・ジアマッティ(『サイドウェイ』)配給:KADOKAWA
公開:81日より角川シネマ有楽町ほか
http://loveandmercy-movie.jp/


●ストーリー


1960年代半ばのカリフォルニア。人気の頂点に立っていたザ・ビーチ・ボーイズだが、リーダーで3兄弟の長男であるブライアン・ウィルソンは、ツアーが精神的に大きな負担になっていた。そこでブライアンはツアーに出ずに新作のレコーディングのみに専念することにする。スタジオミュージシャンを集めて作ったアルバム「ペット・サウンズ」は、バンドのイメージに合わないとメンバーにも言われ、またヒットはしなかったが、一部で高い評価を得る。次のシングル「グッド・ヴァイブレーション」はチャートの1位に輝くが、ブライアンの精神状態は日増しに悪くなっていく。1980年代、車の販売店のセールス担当のメリンダは、店にやって来たブライアンと出会う。ブライアンはメリンダを気に入り、メリンダもブライアンに引かれデートを重ねるが、ブライアンの病気は治ってはおらず、担当の精神科医ユージンの監視のもとでだった。

●レヴュー


ザ・ビーチ・ボーイズというと、夏と海とサーフィンというイメージが今でも強いのかもしれない。とくに僕がロックを聞き出した70年代後半の日本はそうだった。70年代半ばは60年代から続いたロックの怒濤の進化もちょうど一段落し、過去を振り返る余裕が出て来た。『アメリカン・グラフィティ』(「サーフィンUSA」が流れていた)のヒットもその流れかもしれない。ラジオから流れて来るザ・ビーチ・ボーイズの曲と言えば陽気なサーフサウンド。パープルやツェッペリンが好きな高校生も、ビートルズやストーンズは聴くが(見かけもかっこいい)、お揃いのボーダーを来てワイルド臭がないザ・ビーチ・ボーイズはまるでスルー。今では名作と言われている『ペット・サウンズ』に手を出したのも80年代末のCD時代になってから。山下達郎や萩原健太らによる“布教”の成果だが、当時はほぼ響かず、いつしかCDもホコリを被っていった。

ところがゼロ年代になって、僕は再びそのCDを聴くようになる。きっかけは映画『死ぬまでにしたい10のこと』。観られた方もいらっしゃるだろうが、主人公の女性が若くして余命まもないことを宣告され、悲しみの中で口ずさむ歌が「ペット・サウンズ」収録の「神のみぞ知る(God Only Knows)」だった。あらためてこの曲を聴くと、その美しいメロディの中にいいようのない悲しみがこもっていることに気づかされた。それからこのアルバムは僕の愛聴盤になった。

さて、今ではロック史上の名盤と言われているザ・ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』だが、発表当時は、一般の人が持つザ・ビーチ・ボーイズの明るいイメージからかけ離れた内向的な内容が嫌われ、大ヒットにはならなかった。次のシングル『グッド・ヴァイブレーション』はチャート1位のヒットとなるが、次作『スマイル』の録音中にリーダーのブライアン・ウィルソンの精神は崩壊し、バンドは別の方向に向かっていく。

本作はその絶頂期から落ちて行く60年代のブライアンの姿と、長い低迷から抜け出そうとしている80年代のブライアンの姿を、2人1役で交互に描き、謎の多いこの天才に迫るドラマだ。カリフォルニアの陽光の中で育ったウィルソン3兄弟と従兄弟、同級生の5人で結成されたザ・ビーチ・ボーイズ。リーダーは作曲を手がける長男のブライアン・ウィルソンだ。60年代のエピソードは、当時のドキュメンタリーフィルムや伝えられるエピソードをもとに本格的に作られており、音楽ファンにはたまらない(レコーディングに集まったスタジオミュージシャンも服装からそっくりに再現)。支配欲が強い父親との確執(小さい頃は子供たちを殴りつけ、バンドがデビューするとマネジャーになった)、もとからあった精神の脆さ(デビュー当時から“よそ”の声が聞こえるようになった)、ツアーによるストレス(飛行機の中で発作を起こし、ツアー脱退)などが語られていく。

『ペット・サウンズ』『スマイル』などのアルバム制作の裏側が映像で語られていく過程は楽しいが、ブライアンにとっては理想の音楽を作ることによって、自分をどんどん苦しい場所に追いつめていく過程である。取り巻き連中に囲まれて豪邸に住み、ドラッグに手を出し、自分が自分の中心からどんどん追いやられていく。ブライアンを演じるポール・ダノは、顔が似ているというより、「ああ、こんな感じの青年だったんだろうなあ」と感じさせてくれる好演。この人、顔が地味なので娯楽アクションとかには出ないが、若手の中では作品選びが面白く(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の牧師とか『リトル・ミス・サンシャイン』で沈黙の近いを立てた長男とか)、今後が楽しみ。自身もバンドでギターとボーカルをやっている。あまり上手くはないが(笑)、Youtubeで観られる。

そして80年代のブライアンを演じるジョン・キューザックも、顔はまったく似てないが、“忘れられた人”になってしまった80年代のブライアンの空虚感(とクスリづけで表情がない)をうまく体現している。彼を精神的に支配している精神科医役のポール・ジアマッティは相変わらずだが(カツラがおかしい)、こういう外野がいろいろ関わって来て周囲から切り離してしまい、才能ある人を潰していくのはアメリカ的な光景。

この映画、観ながらけっこうツボにはまった。ダメになっていくブライアンと、回復しようとしていくブライアン。その間にあった語られない15年は、どんな地獄だったのだろう。才能があっても精神的にもろい人はいる。そういう人を支える人たちに恵まれなかったら、人はどうなってしまうのだろう。ブライアンには成功によってお金があったが、豪邸に住む空虚な生活も、いかにもアメリカンな感じだ。同年代のビートルズのメンバーと比べても、お金があって望む暮らしは、イギリス人とアメリカ人ではかなり違うのだろうなあ。そんなことを考えながら、音楽に酔いしれた2時間。エンドクレジットでは“本物の”ブライアンによる「ラブ&マーシー」のライブ映像が流れる。ほんと、しみじみしてしまった。帰宅してすぐにザ・ビーチ・ボーイズの『スマイル』をネット買いしてしまったよ。

(★★★☆)


●関連情報


・ザ・ビーチ・ボーイズの挿入歌以外の映画音楽もいいのだが、担当はアッティカ・ロス。ナイン・インチ・ネイルズとの仕事から映画音楽に入り、トレント・トレズナーとのコンビで、いまやデビッド・フィンチャー映画には欠かせない。『ソーシャル・ネットワーク』でアカデミー作曲賞を受賞している。

2015年7月1日水曜日

ルック・オブ・サイレンス


The Look of Silence

兄を虐殺で殺された青年が、加害者に初めて沈黙から声をあげる。





2014年/デンマーク、インドネシア、ノルウェー、フィンランド、イギリス


監督:ジョシュア・オッペンハイマー(『アクト・オブ・キリング』)
配給:トランスフォーマー
公開:74日よりシアターイメージフォーラム

●ストーリー


インドネシアのスマトラ島メダン近郊。老いた両親と暮らす青年アディは、1965年の虐殺で兄が殺された後に生まれた。母親は半世紀前に殺された息子への想いを胸に封じ込め、加害者と同じ村に暮らしていた。父親は認知症をわずらい、息子の記憶さえない。オッペンハイマー監督が撮影した加害者たちのインタビューを見たアディは、彼らがまったく罪の意識を感じないことに衝撃を受ける。そして加害者たちに会って、罪を認めて欲しいと訴えた。そこで眼鏡技師として働くアディが、無料の視力検査をすることで加害者たちに近づき、質問を投げかけ、その模様をカメラに収めることになった。

●レヴュー 

当初オッペンハイマー監督は、1965年に起きた100万人近い大虐殺の被害者側のインタビューを集め、それをドキュメンタリーにしようとしていた。しかし当局や民兵の度重なる妨害に遭い、撮影の中止を余儀なくされる。ところがその過程で、妨害していた側に取材対象を変えてみると、途端に彼らが協力的になることがわかり、加害者側を撮影して『アクト・オブ・キリング』を完成させた。この作品は各国で高い評価を受け、2014年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にもノミネートされた。その間、2012年の『アクト・オブ・キリング』の撮影中、被害者の弟であるアディの提案を受け、本作のメインである、アディと加害者の対話の撮影が行われる。『アクト・オブ・キリング』が公開されたら、オッペンハイマー監督はインドネシアには戻ることができないだろう。これが最後のチャンスだった。

『アクト・オブ・キリング』は、衝撃的な作品だった。迷信に左右される未開の社会ならともかく、「ふつうの文明社会にいる人たちが身近な人たちを虐殺できるのか」という問いの答えを見せてくれたからだ。もちろん、アイヒマン裁判が教えてくれたように、薄々はわかっていた。が、特殊な社会状況が人をそうさせるのではないかという、どこに「人のせいではなく、社会が悪い」的な甘い考えが自分にもあった。しかしこのドキュメンタリーを見て、それがまちがいであることはわかった。人は隣の人も、理由さえあれば簡単に殺すことができると。それはどんな社会でもあまり変わらない。「虐殺のメカニズム」を、冷静に、しかもわかりやすく見せてくれたのだ。インドネシアの場合、それが「共産主義」「中国系」だったが、それは別に他のものに簡単に置き換えがきく。普遍的なものなのだ。

『アクト・オブ・キリング』が、加害者側に自らの行為を語らせ、演じさせるという発想の転換の、実にユニークなドキュメンタリーだったのに対し、この『ルック・オブ・サイレンス』は被害者側の支店を入れる、オーソドックスな作品かもしれない。ただ、被害者側が淡々と訴えるという内容であれば、それは正論で、映画の中で善悪は完結してしまうだろう。そこで本作では被害者側が声を大きくあげるのではなく、むしろ「沈黙」を通さねばならなかったことについて考える。自分の息子を殺した人間と同じ村に住み続ける辛さ。沈黙の50年を生きた母親が口を開く。今まで家族以外、誰にもその無念を語ることはなかったろう。

カメラの前で殺害を自慢するものもいる。彼らは当然「善い行いをした」と思っているからだ。通常の神経なら、同じ村の、知り合いの息子を殺したことを、笑いながら話せないだろう。それに彼らは犯罪を生業としている訳ではない。政府の役職に就いたり、政治家になったり、教員になったりするものもいた。人を殺すことで一番重要なのは、自分が罪の意識を感じないことだ。それはたとえば極悪非道な事件が起きた時に、犯人が死刑になってもほとんどの人々の心は痛まない。それは、それだけのことをしたからという、納得できる理由があるからだ。この虐殺の加害者たちも、自分を正当化できる“理由づけ”がそれぞれに持っている。「正義のために」「上からの命令で」「宗教に反する」などだ。

殺害の様子を川のほとりで再現するいい歳のおじいさんたち。ニコニコしながら、「なかなか死ななくてね。何度も刺して、ペニスも切ったよ」と言っている恐ろしさ。犠牲者の血を飲むと狂わないですむという迷信から、血を飲んでいた殺害者の老人も怖い。いや、そこまででなくても、アディの母の弟が収容所で看守として働いており、結果的に見殺しにしていたことを姉に50年も黙っていたことも怖い。

このドキュメンタリーがすごいのは、そうした発言をうまく引き出していることだ。アディが加害者の老人のところに行って最初は目の視力検査を何気なくする。それから「あのころは大変だったでしょう」みたいに最初はさりげなく話題を切り出す。アディの年齢からして、当時のことは知らないはずということもあり、すっかり油断した老人たちは、「あやー、よく殺したよ。殺しても殺しても数が多くてさー」みたいに自慢気に話し出す。そこでアディは、「ところで、私の兄も殺されたんですよ。あなたたちに」と言う。その瞬間の動揺をカメラは見逃さない。すっかり不意打ちを食らった彼らは、「いゃ、命令に従っただけだよ」と言い訳をするものもいるが、「お前は俺を責めに来たのか」と怒り出すものもいる。このまるで“どっきりカメラ”のような展開が実にスリリングだ。人はなかなか人前では本性を現さない。カメラが回っていればなおさらだ。そのため、このような仕掛けが必要なのだろう。「虐殺を自慢している男も、本当は心に疾しいものを感じているのではないか」とアディは信じて始めるが、そこまで自分のしたことを冷静に見ている加害者はほとんどいない。

見ていて強く感じるのは、殴ったほうは殴ったことを忘れて、それすら思い出にできても、殴られた方は一生忘れることも思い出にすることもできないことだ。その痛みは過去のものではなく、今もリアルに感じられる痛みなのだから。
(★★★☆)

●関連情報

・前作『アクト・オブ・キリング』も必見。ぜひ併せて見たい。